2024.9.30 渡辺憲二




・興聖寺伝マリア観音(函南町塚本431)

興聖寺に伝わる覚書“子安堂従前興聖寺ノ境内ニアリ、文久年度字堂屋敷下畑弐畝歩ノ宅地ニ移ス、明治十年廃堂、本尊ガ子安観音ハ興聖寺へ安置ス”によれば、その昔境内にあった子安堂を文久年間(1861)に二畝歩(にせぶ=約198㎡)の広さの宅地に移動した。やがて明治十年(1877)に子安堂を廃棄し、本尊の子安観音像のみを興聖寺本堂に移す、とある。
この覚書き以外に別の伝承があったのだろうか、その子安観音がマリア観音として1983年3月16日に町指定有形文化財に指定されている。当時文化財認定した調査人の記録は消失している。

石彫や木彫と異なり、このような木芯に漆喰で肉付けし、さらに一層塗って顔料を施す色彩豊かな小品塑像は、江戸末期から明治にかけて多く制作され、江戸と伊豆で活躍した鏝絵の名工入江長八もこれを得意としていた。
この観音像の御身体は子安観音そのもので、キリスト教の影響を受けた点はない。ただその宝冠は独特である。仏像の宝冠は通常、天冠台の上に据えられるが、これは額に直接打ち付けられている。こうした作例は非常に稀である。例えば奈良法隆寺にある秘仏救世観音は、光背が頭部に打ち付けられているその稀な仏像だが、それは”観音像に宿る聖徳太子の怨霊を封じ鎮魂するため”という説も生むほど非常に特異な例である。(梅原猛『隠された十字架-法隆寺論』) 
”福岡県筑前町に伝わる久野家のマリア観音像にはその右腕部分にキリストとみられる像が釘付けされており、刺されている釘は長く、キリストの苦難を表しているという。キリスト像の造りは稚拙で、マリア観音像と同一鋳型ではなく後付けされたものである。”(後藤晃一「潜伏キリシタン図譜」p302)
興聖寺伝マリア観音は額中央に錆びた鉄釘が刺さり痛々しさも感じられる。痛々しさは喉の包帯のせいでもある。像の背面に養生も当てず、像を座らせたまま頭部に釘打ちした衝撃で首内部の木芯が割れ、三道にひびが入った。にもかかわらず白い修復跡を隠す工夫もないまま、その上から瓔珞(胸飾り)を留めた。宝冠制作者には像の彩色仕上げに用いられた顔料も、それを調合する技術も無かったからだろう。もっと言えば、像と宝冠の間には作られた時代にも開きがある可能性が高い。
額の釘頭(ていとう)をみると江戸以前の和釘ではなく、明治六年以降に欧米から日本に輸入され普及し始めた洋釘が用いられている。禁令高札が撤去されキリスト教が解禁されたのも明治六年である。しかしいまだキリスト教への差別意識は根強く、直ぐに信仰を表明できる時世ではなかった。鉄釘は腐食し易く後に修理交換されるものであるから原型の手掛かりになるのは宝冠である。即ちこの”宝冠のデザインそのものが初めから中央に平頭の丸釘を打つことを想定した意匠”であり、”釘隠し”や金泥で釘頭を化粧する工夫も見当たらない。像の袖や袈裟、光背には真鍮粉で金模様を描いているのにもかかわらず、である。
後世に装飾が加えられるということは、彫られた石地尊に前掛けをかけるがごとく、観音像に対し愛着と崇拝の表れを感じる。しかしながら恐れ多くも御魂の入った仏像の白毫所に釘を打ち付け、その釘跡をあえて「見せる」作風は、仏師の習わしに見あたらない。一方、キリスト教では人が刻んだ像に神は宿らない。釘打ちはキリスト教にのみ顕れ得る特徴であり、観音菩薩本地の勇力を打ち消し、その「聖痕」を見せるという新たな意味付けを加えることで、像の書き換えが完成する。
釘穴の周りには十二弟子を表す十二の宝玉が装飾され、その左には特徴的な三本(正確には四本)のとげのある非対称の波形台座が水平に伸びている。仏像では完全な左右対称の宝冠しか存在しない。一方この台座は、水の流れや盛り土といった不定形の自然を象徴している。土としてみるのであれば、これはカルワリオ(ゴルゴダの丘)を表し、その上に立つ隠された十字架に繋がる意匠と思われる。この意匠は九州「秋月城跡出土キリシタン軒下瓦(1604)」や、「豊後大野市朝地町の市万田磨崖十字架碑(江戸初期以前)」と類似する(右図参照)。宝冠最上部には孔雀の羽根が意匠されている。孔雀は、仏教では蛇など害虫を食べる習性から人々の辛苦を除く慈悲の仏鳥として奈良時代から描かれ、中でも快慶作孔雀明王像が有名である。一方キリスト教においてはフェニックスとみなされたことから、イエス・キリストが十字架の死から復活することを象徴する鳥である。
この像は、脆い装身具や薄い光背など付属品が取り付けられているので、懐に隠して持ち運んだ信仰具として作られたものではなく、安全に観音像を保管できる御堂や庫裏に安置する目的で作られた本格的な礼拝用仏像である。観音像をマリア像に”加工”するとき、当然ながら信者と仏師は別人格である。この観音を祀っていたのは金工細工師に発注できる資金と身分と信心があった信徒であったのだろうと推察する。江戸初期生まれの貧しいキリシタン久右衛門一族と、明治の興聖寺伝マリア観音像は繋がらない。宗門改帳にも江戸末期の伊豆に潜伏キリシタン史料は発見されていない。
興聖寺伝マリア観音似た宝冠を持つ像がある。『潜キリシタンの信仰と切支丹灯籠』の著者、松田重雄氏が所蔵している木彫立像観音で、同書p177に紹介されている。著者は生前全国潜れキリシタン研究会会長も務めた研究者で、この像を観音像ではなく聖母子像と呼び「子どもを抱く観音像にマリアとイエスを仮託して祈った。宝冠の上部に巧みに十字架を偽装している」との解説を添える。こちらの像もトゲの付いた波型の天冠台が後頭部に周らず正面で左右に翼を広げ、そのを中央で丸釘で留めている。宝冠上部には十字型にみえる装飾があり、中央に孔雀の羽根模様が飾られている。顔の額ではなく髪の生え際に打っている位置も同じである。
松田氏は鳥取県出身だが、この像をどこで手に入れたのか由来は不明である。江戸時代からすでに宝冠瓔珞の多くは仏像に適合したものではなく大量生産品を無造作に打ち付けたものになった。(西村公朝「仏像の再発見」p95)仏像の造形美は白鳳時代を頂点に常に後世に模倣されてきたが、この大量生産品でさえ、さらに明治になると真鍮で粗製濫造されてきた。波型天冠台の左右に四本のトゲのも見える。松田氏聖母子像の宝冠は、巧みに十字架を偽装しているというより、この江戸時代の宝冠を縮小省略して再デザインしているような関連性が見える。明治時代以降は、このような丸釘で額に打ち付ける小型の宝冠デザインも大量に製造され全国に出回っていたのだろう。

禁教が解かれて二年後の明治八年(1885)にパリ外国宣教会のマラン神父によって沼津に宣教がもたらされたのち(御殿場教会史)、伊豆半島各地を歩いて回った同派テストウィド神父に受け継がれていく。もしこの像がキリスト教に関連したならばこの時期と思われる。だが明治十年に興聖寺本堂内に安置されており、それ以降はキリスト教の影響を受けることはない。
江戸末期までお寺の境内にあった観音は、何らかの理由(安産祈願のためなど)で寺から離れた小川氏宅で祀られ、十六年後何らかの理由(戸主の死亡など)で、お寺が再び受け入れた訳だが、その里に出ている間、明治八年から十年に宝冠と瓔珞が後付けされた可能性が高い。仮に小川氏がキリスト教の影響を受けていたとしても、明治以降の信仰である。もしくは、本堂改築時”せっかく広い本堂の庫裏に観音様をお迎えするのだから、17㎝の像高をもっと立派に見せたい”と当時の住職本人が宝冠、瓔珞、光背、座布団セットを仏具屋に依頼した可能性もある。その場合、宝冠が十字架にみえるという調査者の解釈自体が思い込みとなる。いずれの場合にせよ、洋釘の存在しない江戸時代に潜伏キリシタンとの関係は見いだせない。

この子安観音像を十六年間祀っていたという小川家は「ほんとうにキリスト教徒だった」という伝承が伝わっていたのかどうか精査することや、興聖寺過去帳(特に小川家戸主の没年)や、明治に観音像が移動された経緯を再確認することによって、この像の真偽が明らかになる可能性が高い。



興聖寺子安観音(伝マリア観音)
宝冠に丸釘、中央に十字架、上部に孔雀羽根

宝冠部分拡大


サンタポリナーレ新聖堂(ラヴェンナ)6世紀
葡萄の木、十字架、孔雀のデザイン


豊後大野市「市万田干字クルス」拓本(江戸初期)


松田重雄氏所蔵観音像。由緒不明。
波型天冠台を丸釘留め。宝冠に孔雀羽根。


江戸時代に大量生産された宝冠品
(西村公朝「仏像の再発見」p95)
・安楽寺伝マリア観音(伊豆市土肥709)

”五百羅漢の中に人の背丈のニ、三倍くらいのマリヤ観音がある。イエズスを右腕に抱き、お腹の部分がハート型で、中に十字架が刻印されている。”(吉田正一『伊豆市土肥町と隠れキリシタン思考」2007.4全国かくれキリシタン研究会誌18号p41』との記述があるが、五百羅漢発願事業は寺側に資料が残っている可能性が高く、これが彫られた時代や作者の記録が残っているかもしれない。


腹がハート型で十字の刻印
安楽寺五百羅漢(土肥)

・子育神社地蔵尊(伊豆市土肥2916)

”弁天神社の社務所の中に安置されている子育地蔵尊(観音)は左手に赤子(キリスト)を抱いている。裏に「石工忠助」の銘文と、小さな点が正三角形に三つ彫りこまれている。三位一体の意味か。高さ35センチ程である。”(吉田,同書p42)との記述がある。
神社に祀られた仏像というだけでも珍しいが、地蔵菩薩を観音菩薩とも見なすことも珍しい。
三つの小さな点については、興聖寺の項目で挙げた松田氏著作『・・・切支丹灯籠』p143でも”星”の象徴としてこう解説している。”切支丹灯籠は「ヨハネによる福音書」にある”地上に光を与えるための教え”を取り入れたものと思われる。その教えを表現するため、火袋(灯籠の火を灯す箱)の模様を、丸型を太陽とし、三日月型を月にあらわし、三つの小丸型を星に象徴して作られたものと推察される。”
仏教でも三つの円や三つの点を用いて仏、法、僧の三宝を表す図像が多い。陰陽五行節でも三合の理(生、旺、墓)につながるものとして三気を表現する。樵夫たちが斧の刃に三気(ミキ=お神酒)の傷をいれる習慣として今に伝わる。また武家の家紋としても三つ丸は類似例がある。三点が三位一体と解釈できるから、それを根拠にこの赤子がキリストに見えるというのだろうか。そう見るためには作者忠助がキリシタンだった資料が必要となる。


弁天神社子育地蔵(土肥)
・馬頭観音(同上)

”地元では馬頭観音と呼ばれているが、之も鯖大師と同じように、たとえ馬頭観音の文字が刻印されていても、右腕と両手を合わせた処にハッキリと十字架が彫られている。ところでこの観音の造られた年代もハッキリしない処を見るとなおさらキリシタン石造物と言っても良いのではないだろうか。”(吉田,同書p42)との記述がある。
特に最後の文が意味不明で、「由緒のない像はキリシタン遺物と見なす」論法は、キリスト教信者の陥り易い迷宮であり、「幕府に露見することを回避するため意図的に文献として残さなかったはずなので由緒はむしろ無い方が良い」というおかしな免罪符として、公(博物館や自治体等)にまかり通ってしまう恐れがある。生前の吉田氏もまた清水市文化財委員も務めておられた。
私見では、仏像の胸の十文字の縦線は袈裟の下に着る汗衫(かんさん)つまり下着の縦線だろう。影で見えにくいが恐らく左側にも同様の縦線がある。この像は馬頭観音として造られて馬頭観音と呼ばれていると素直に捉えたい。石彫ではノミ傷が装飾となる。特にこの仏像は円空仏のように平ノミだけで仕上げているからそれが目立つ。十文字はキリスト教だけのものではない。”これがもし十字架であるとするならば”、目立つ正面に彫っているのに像中心に彫らないのは信仰上の誤りで、隠すようで隠す気がない中途半端なキリスト信者に思える。まして馬とキリストは何の関係もない。馬頭観音の像名文字がハッキリ刻印されているのに、見たいもの(十字架)しか見えていない例だろう。
吉田氏は冒頭、別像の鯖大師像についても、像が魚を持っているからキリストの仮託だと論じているが、この鯖大師には弘法大師空海に因む伝承が地元に伝わる。また平安時代から信仰を集めてきた魚籃観音菩薩という仏もある。特に海辺の漁村で祀られることが多いのはやはり豊漁を願う素朴な漁村民の仏心からだろう。その素直な信仰心をキリスト教信者が穿った目で奪ってしまうのは可哀想で、せめて「鯖大師の由来が弘法大師でも魚籃観音でも無い」という反証が欲しい。


十文字のある馬頭観音(土肥
・子安神社伝マリア観音

河津町縄地に子安観音を祀る神社がある。神社に仏像が祀られる珍しい例だが、縄地はかつて徳川家臣大久保長安が管理し、ジョアン・ツヅ・ロドリゲス神父も通った銀鉱山がある。これから実検調査を深めたい。

【マリア観音をめぐる問題】

マリア観音という呼称は明治時代に生まれた。
”長崎では、潜伏キリシタンがサンタ・マリアのイメージを求めて実際に祀って祈っていた中国製白磁観音像を、のちにマリア観音像と呼ぶようになった。潜伏キリシタンたちが祀っていたという由緒があって初めてマリア観音ということができる。かくれキリシタンの祀ったマリア観音は純粋の仏像なので、十字架などをつけたマリア観音はむしろ贋造のにおいが強い。”(片岡留美子「平凡社世界大百科事典」)」
”各地でみられるマリア観音は確固たる裏付けがなく展示されていることがある。マリア観音の外見は観音像であるため、マリアとして信仰していたという文書的裏付けが必要である。そのため本来は「伝」を付けて管理するのが適切と言えよう。”(安高啓明「潜伏キリシタンを知る辞典」)”
”天草地方のかくれキリシタンも、観音や弘法大師像などの立像を所持してしており、1805年の天草崩れで没収された記録が残っている。これを根拠として、来歴不明の白磁観音や観音像がマリア観音像として売買され、信仰具として扱われる例が少なくない。そのため「マリア観音」という用語自体が持つ意味も曖昧になっており、かくれ信仰具を指す言葉として使用することは避けた方がよい。”(中園成生『平戸市生島町博物館HP』)
最新のキリシタン研究を網羅した大著『潜伏キリシタン図譜』の中でさえも、現代の調査者の解釈でマリア観音としたに過ぎないものがある、と中園氏は疑問を呈する。”例えば、山口県長門市先大津地区の子安観音は、それ程古くない時代に発見され、檀家が家に伝わる観音を寺に持ち込んだものとされているが、その家がかくれ信仰を行っていたかの検証はない。兵庫県丹波篠山市の長徳寺の子安観音像については、東京国立博物館所蔵のマリア観音像との作風の一致のみが根拠とされた。静岡県静岡市用宗大雲寺の石碑に掘られた観音像は、昔からマリア観音と呼ばれていた事と、キリストの遺骸を抱く聖母マリアのピエタを連想させる事からマリア観音とされた。秋田県横手市春光寺の観音像や湯沢市川連の観音像、仙北市寺沢地区の北向き観音などについても、かくれ信仰の存在の検証は無く、見かけの印象に拠ってマリア観音だとされている。”
後世の誤認や贋造説を払拭するためにも、マリア観音の認定には像のキリスト教様式の検証と同じく、誰が祀ったか信者側史料の検証が重要といえる。庶民の伝承も、人々の「そうあって欲しい」という願望や、思い込み、勘違いからも生まれる。それを調査するキリシタン研究者側も「信仰の証しを発見したい」欲求バイアスがかかった解釈に陥らぬよう留意する必要がある。
しかしながら、単に信者の名前が残っていないから虚構系だと切り捨てるのではなく、周辺村落に残る類似の遺物や伝承が傍証として裏付け資料のひとつとなるだろう。いずれにせよ博物館や郷土資料館では、研究者の主観を鵜呑みにすることなく、あくまで客観的確証のないものを本物として展示するべきではないという姿勢が、近年研究者たちの間で主流となってきている。
先年は縄文土器や化石と同じく、少しでもキリシタン遺物と思える資料を発掘していくことが調査の主流であった。出所不明でもまかり通るキリシタン遺物は蒐集家市場で高額で取引され、また郷土の文化財を増やし観光客誘致を進めたい自治体の思惑にも合致することから、供給側も需要側も虚構系遺物でも氾濫する土壌が広がった。しかしその主観を検証できる権威的学術機関がないま長い間放置された結果、虚構系や贋作、海外向け土産物も含めた玉石混合の資料が全国海外に広がった。その権威的学術機関の基準となるべきは先に挙げた『潜伏キリシタン図譜』だったのだが、それも既に石が混合されているとの指摘が入っているのは誠に残念である。当該地域の執筆者は是非反論を挙げてもらいたい。
現在も信者不在のまま文化財となっていたり、オカルト系動画でイロモノ扱いされたりと、マリア観音をめぐる認識の混乱は続いている。先学の調査には感謝しつつ、後学ではこれらを再検証し、広がった資料を精査する更新を続けたい。


白磁観音像「ハンタマルヤ」長崎県


『潜伏キリシタン図譜』(かまくら春秋社)
www.kenjiwatanabe.com