切支丹類族死失帳
元禄三年(1690)伊豆國田方郡代官の江川太郎左衛門が記した『切支丹類族死失帳』に、キリシタン久右衛門(きゅうえもん)と、その子孫たちの名が残されている。彼らは“ささら”であった。
イエズス会宣教師ジョアン・ツヅ・ロドリゲス神父は1608年の自書『日本大文典』に、七乞食のひとつとして「ささら説経」を挙げ、それを「喜捨を乞ふために感動させる事をうたふ者の一種」と説明している。ささらとして、キリシタンとして、久右衛門が命をかけて謳い上げたものは何だったのか。伊豆の国市旧家矢田家から発見された古文書を解読しながら、説経節と聖書の世界を生きた彼の人生を考察したい。
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『伊豆国切支丹類族死失帳』
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ささら
ささら説経師は、神社や祭りの門前に筵(むしろ)を敷き、大傘を立てた簡素な舞台で“ささら”と呼ばれる二本の竹を擦り、庶民の涙を誘う語り物を演じた漂泊芸能民である。やがてその道具「ささら」が、雑種賎民の身分を表すアトリビュート(象徴持物)となった。彼らは近江国、今の滋賀県大津市三井寺近松寺で祀る琵琶法師蝉丸を芸祖とし、周辺他藩領の同じ身分の者たちの間で集団を取り結んでいた。畿内近国の同一身分の者たちは、近松寺の例祭時に参拝し、巻物を下付して彼らを組織した。中世より伊勢方面から美濃・尾張・三河・遠江・駿河の東海道筋を最も多く往還し、その地方に早く土着した。そのなかでも最も遠い駿河国有渡郡のささら集落は毎年参加することはできず五年に一度であったらしい。(室木弥太郎『藝能史研究3・せつきゃうの周辺』)
久右衛門は慶長年間の始め、今の静岡県西部遠江国に、ささらの子として生まれた。正確な出身村までは不明だが、遠江国には領主小野田家を中心に全村がキリシタンであったといわれる太田村(現袋井市太田)があった。
関ケ原の合戦、大阪の陣と続く戦に荒廃した近江、遠江から、ささら説経師が東へ漂泊した。駿府城の天下普請の為にわかに活気づく駿河国には集落ができたが、彼は駿府近郊に留まらず、富士を左手にさらに東部へ流れ、やがて三島から南に下った伊豆国田方郡の一村落に住み着いた。伊豆半島の中心を流れる狩野川とその支流がぶつかる田方平野は、幾度となく満水に悩まされ続けたが、またそのために肥沃な水田が広がる荘園郷でもあった。ささら久右衛門はこの浸水場で人の住めない広い河原の一角に小屋をかけた。住民がみな貧しい百姓ばかりの古い村だったが田畑が広がれば鳥追いの口もある。そして何より、箱根越えを待つ東海道の往来で賑わう三嶋大明神(三島大社)に参拝客は尽きず、宿の門前に立てば門付も乞えると思われた。
ささら説経師は「けだし鳥追いは長者の田園の鳥を追うばかりの勤にて妻子を養う者ども」である。(菊池沾涼「近世世事談」)説経師の裏返しは鳥追いであり、本人は勿論一家をあげての労働であったに違いない。説経節の「さんせう太夫」や謡曲の「鳥追舟」はそういう鳥追いの過酷な生活を素材にしている。飢えは常に彼らの暮らしに沁みついていた。(室木,p19)
土地を所有することが出来なかった身分のささらは、差別を受けながらも語り物で人々の涙を誘えば門付が集まった。近江本山から最も遠いとされた駿河よりも、さらに離れた伊豆に根を下ろせば、近江の例祭で毎年催される流行の新曲も仕入れ難い。新しい語り物をどうにかして自分で見つける必要が生じた。喰い詰めた時でも乱世に慣れた遠江の者は明るく積極的な気質と言われ、駿河の者は人袖を頼り、伊豆の者は人が良いがのんびり暮らす。そんな地域気質の違いを「遠江の泥棒」「駿河の乞食」「伊豆の飢死」と、いつ頃から言われ始めたのだろうか。
朝、伊豆の村より三嶋大明神へ向かう時、ふと目を上げると厚い雪に覆われた白い富士山の噴火口からときどき”焔”があがるのが見えた。(レオン・パジェス『日本切支丹宗門史』1607)宝永噴火の百年前である。
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筠庭雑考『ささら擦説経』 慶長年中
同書『門付説経』 |
伊豆国の様子
慶長十二年四月二十一日(1607/6/15)イエズス会日本準管区長フランシスコ・パシオ神父一行が、大御所徳川家康、新将軍秀忠父子との謁見のため長崎から江戸へ向かう旅の途上三島宿に泊まった。一行が江戸に着き謁見した秀忠から、最近伊豆国に発見されたばかりの銀坑山を視察するよう勧められた。行程変更が難しいパシオ神父の代理として、特に日本語が堪能であった前出のロドリゲス神父が「公方(秀忠)の要望に応えて伊豆に向かった。そこ(江戸)から海路で伊豆国の銀山を見るために赴いた」のち、同地から三日行程の駿府に戻り、準管区長一向に合流したと思われる。彼は恐らく江戸から下田港に着き、同地から近距離の縄地金山に入り、のち湯ヶ島・大仁の各鉱山を巡って陸路三島に出、駿府に戻ったのであろう。(五野井隆史『徳川初期キリシタン研究』)
駿河国では1611年3月フランシスコ会宣教師ルイス・ソテロ神父が、徳川家康の許可を得て駒形にフランシスコ会の教会を建設した。同時期、伏見から派遣されたイタリア人のイエズス会宣教師ジロラモ(西語ジェロニモ)・デ・アンジェリス神父は美濃、尾張、伊勢、三河、駿府、武蔵あわせて千二百人の告解を聞き、二百七十人に洗礼を授けた。彼もまた同年末に駿府城隣地竹屋小路「西草深」にイエズス会の教会を建設した。この時期徳川幕府の確立に専念していた徳川家康は宣教師らに寛容であり、駿府キリシタンにとっては束の間の全盛期で、その数は七百人を超えていた。
その後、幕府は禁教令を発令、これら駿府の教会は建設許可を出した家康の命令によって取り壊された。棄教に従わない家臣原主水は将軍秀忠の勘気を被り、手足の指を落とされ、額に十字架の焼印を押され、足の腱を切られて路上に打ち捨てられた。
"公方の常住の地である駿河には、司祭が一人と修士が一人ゐて、此二人は屡々江戸を訪問した。迫害前甚だしいキリシタンがゐて一箇年半の中に、二百四十人の成人者が洗礼を受けた。然るに、帝國の中心には嵐が物凄く吹きまくり、ためにキリシタン達は、皆死ぬ覚悟をしてをつた。"『日本切支丹宗門史1612年』
禁教下1614年時点で日本に残り潜伏した宣教師は四十五名、そのうち京都から三島を含む江戸までの地域を担当していたのが、デ・アンジェリス神父であった。(五野井,p158)
『京の都から東へおよそ八十リーグ(約444km)隔たった将軍の都江戸には多くのキリシタンが住んでおり、その一部は土地の者で、他の一部は各地から集まった他所者である。そこにポルトガル人、ベント・フェルナンデス神父が着き、信徒たちを慰め、神聖な秘蹟の助けによって教義を深めていた。神父はそれ以前に、近江、美濃、尾張の諸国も訪れていた。これらの地には毎年我々イエズス会士たちが宣教に訪ねるのが常である。強い道義心と徳を備えた信者が多い。…広大な領地関東では、三島と呼ばれる町の周りに分割され支配された多くの村落が見て取れる。この地に三十人からのキリシタンがおり、皆、告解し、深い想いをこめて聖体を拝領している。彼らは目下のところ何も恐れることなく、自由に有りのままに証しをしている。』(イエズス会年報伊語拙訳)
この年報に報告される三島の位置は関東の一部のように書かれており、既存訳にみる伊豆という国名は現れない。また、フェルナンデス神父本人が当年ポルトガルの友人司祭に宛てた別の私信群にも伊豆や三島の記述は出てこない。しかし、京都で殉教者の亡骸を密かに葬ったばかりのフェルナンデス神父本人の口から、都の大殉教の報せは三島の信徒たちにも確かに伝えられていたと思われる。既存訳にある”キリシタン自身は自由に行動しており、信仰や宗門上のことではなんらの煩わしさも被っていない”のではなく”(時勢を恐れない)強い道義心(di
molta fortezza)で、三島のキリシタンは自由に信仰を証していた”と読み取れる。
また宗門史の既存訳に、”関東では、フェルナンデス神父が相模を通って三島の地方を訪ひ、江戸に至り、そこに五十日滞在した。”とあるが、これでは順路が逆行してしまう。原書をあたると”関東では、フェルナンデス神父が三島地方を訪れ、相模川を越えて、江戸に到着し、そこに五十日間滞在した。(Dans
le Couanto, le P.Fernandez visita la contrée de Michima, traversa le Sangami,
et parvint à Yendo, où il demeura cinquante jours.)”と読める。神父の伝記によれば1620年2月18日京都を発ち、その一か月後に江戸に赴き、沼田を通って北陸金沢に周り、その後九州で果てている。三島に寄ったのはそのうちの数日間これ一度きりである。むしろこの年報をよく読むと”私たちの仲間たち”が宣教に訪れるのが常である、とフェルナンデス神父だけでなく複数形主語で記されている。
神父は都の大殉教が起きた際、家族のような京都の信徒たちを見棄てず、自分も彼らと一緒に仲間(ディオゴ結城了雪神父)共々、殺されるまで、あるいは迫害が鎮まるまで京都に留まる決死の覚悟でいた。しかし大きな痛手を受けた京都の教会に神父が二人いるのは無理であったので、巡察師フランシスコ・ヴィレイラから指示された任務を遂行するために江戸へ向かった。任務というのが関東諸教会の例年巡察であり特に江戸での宣教司牧であった。 フェルナンデス神父の三島訪問年前後の期間に駿河と江戸との間で宣教していたと思われる宣教師たちは、1621年に伊豆国を訪れたデ・アンジェリス神父とその忠実な同宿の遠甫シモン、ディオゴ結城神父、式見マルティーニョ神父のほか、同宿カテキスタ、ユン・アレイショもいた。ユン・アレイショの宣教活動の地域は江戸市中のみにとどまらず、その近隣の諸国、さらに信濃、美濃、尾張、三河地方にも及んだ。当然のことながら、上京の途次、また江戸への下向時に通過する土地のキリシタンを司牧して歩いていたことが知られる。1625年には、彼は江戸とその周辺諸国で114名をキリシタンに改宗した。名古屋では19名に洗礼を授けた。
宗門史には、フェルナンデス神父は京都から江戸への道中、村々に信徒たちを訪ね、遠江にも三島にも寄ったとある。久右衛門の出生地と現住所、そのどこかの地で、またはそのどちらの地でも久右衛門と神父とは出会ったことがあるのだろうか。二人とも西から東へ渡る旅程も重なる。
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「イエズス会年報」伊語版"Relatione di alcune cose cauate dalle lettere scritte
ne gli anni 1619, 1620, e 1621 dal Giappone -Compagnia di Giesv
同書P139 三島”Mixima”周辺村落の記述
パジェス「日本切支丹宗門史」原書p441
フェルナンデス神父旅程
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マリの霊名
久右衛門が信仰を守るための安住の地として伊豆国を選んだことは神に祝福された。今から四百年前の1625年、彼は妻との間に生まれたひとり娘を「まり」と名付けた。当時聖母マリアに対する信仰はイエズス会宣教師の特に勧めるところであった。
宣教師が突然こっそり伊豆を訪れるのは年に数回、それがいつになるのかも判らないながらも信徒たちは忍耐強く待ち続けた。駿河のジョアン原主水も、駿府に教会を建てたアンジェリス神父も捕縛され江戸で焚刑にされた年である。そんな時期に聖母の燻香漂う名をつけることは恐ろしく勇気がいることでもあっただろう。いや、だからこそ、もし自分が力尽きても聖母がこの娘の命を守って下さるように、という父親の祈りだった。マリの名はそのまま霊名となった。同時に娘を命名した1625年はすでに久右衛門がキリシタンであったことが判かる。彼自身の受洗日も霊名も記録も残っていないが、この命名が彼の信仰宣言となり、堅信の秘蹟となった。
マリが五歳の夏に狩野川の水が溢れた。幼心に川は怖かった。彼女が十五歳になったころ、七歳年上のささらの男、駿河国富士郡出身の彦左衛門と契りを結び、生き急ぐように長女「つま」を産んだ。マリは同じ村落のなかでも、父久右衛門たちから離れた別宅に暮らした。これが後になって一家の命を救うことになる。久右衛門の妻は、夫や婿が三島宿に稼ぎに出ている間、村で離れて住むまだ少女のような娘マリと生まれたばかりの孫の世話に通ったことだろう。
二千年前のパレスチナで、乙女マリアが十四歳のとき両親を失い、大工ヨセフの許嫁となったのも大体この年頃であったという。当時の社会では年頃になったばかりの娘をめとる習慣があり、また男は二十五歳以上になるまでは婚約する権利が無かったので、夫婦の年齢にひらきがあった。"キリストは、我々と同じように人生の苦しさ、惨めさを味わわねばならぬ一人の平凡な庶民の娘を母親として選んだ。キリストがその生涯に好んで出会った女はことごとくみじめで、孤独で、憐れで、我々と同じような弱さを持った女たちだった。そしてもし婚約者を裏切るような行為があれば、当時の法律上その娘は死刑にさえ処せられた社会で、二人が背負わされたあの大きな運命は、実に苦しい試練ではなかったか…"(遠藤周作『聖書のなかの女性たち』)
貧しい伊豆の娘マリも、自分の夫か信仰かのどちらかを選ぶ苦しい決断を迫られることになる。 |
ロザリオの十五玄義「聖母の被昇天」
(江戸初期)京都大学蔵 |
棄教者傑心
1633年日本各地で潜伏宣教をしていたベント・フェルナンデス神父が長崎西坂で穴吊りによって殉教した。伊豆国でも同年、三人のキリシタンが三島代官伊奈平藏によって捕らえられた。当時伊豆国は三島代官所と田方郡代官所とがあり、この三島信徒捕縛の報せは、久右衛門の耳にも当然入った。仲間が捕縛されるということは、残された信者の身元もいつ割られるか知れない。恐れていた迫害の暗雲は確実に伊豆三島にも及んでいた。彼は三嶋大明神の門前に立ちながら、東海道を往来する奉行役人、刑吏たちの姿を目で追ったことだろう。
久右衛門もその後十年間は覚悟をもってひそかに信仰を守っていたが、1643年2月6日から9月16日のあいだ奉行役人たちに捕縛され、江戸小伝馬町牢に送られた。久右衛門を密告したのは、傑心という目上の転びキリシタンだった。
傑心は甲州萩原村に生まれ、十六歳のときに江戸に出てフラシスコ会に入った。宗門改役井上築後守政重は『契利斯督記』の中で“小田原領ミクリヤヨリケツシント申ス能キ宗門出候、”と書き残している。(右図参照)姉崎氏によればこの“能(ヨ)キ宗門”とは教師格を表す。駿河でイバニエス神父が建てた教会堂の留守番役をしていた同宿はこの傑心だったと思われる(高木『原主水の生涯』)ことから、同じ駿河のフランシスコ会にいた同年代のジョアン原主水とも親しかった。やがて江戸でキリシタン迫害が始まると傑心は御厨新橋村(御殿場市)へ越した。そんな彼の素性と動向を幕府側は早くから探っていたのだろう、江戸の大殉教で原主水が処刑された年、傑心は深沢村大雲院にロザリオを捨てて棄教した。しかし転んでも常に監視され、十二年後に江戸小伝馬町牢に送られて八か月の間、奉行の取り調べを受けて帰村する。さらにその八年後再び小伝馬に送られ、半年間再び厳しい取り調べを受けた。奉行がすでに棄教した者を何度も牢獄に入れ取り調べという拷問にかける理由はただ一つだった。傑心は報奨金目当てに密告したわけではなかった。そうしてこの時、久右衛門は、井上築後守の面前で、密告者の傑心と対面した。目を伏せる傑心はひどく老けて見えた。転び傑心はやがて放免され御厨に帰村し余生を過ごした。
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”フェルナンデス神父の殉教”タンネル著
「イエズス会の殉教者」(1675年プラハ)
「契利斯督記」1658年
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マルチリヨの心得
小伝馬町牢で久右衛門はそこで見知った自分の仲間たちが牢役人として仕えているのを見た。死の匂いが充満した吊るし場で切支丹を吊るし亡骸を処理する役目は、彼ら差別された下層身分の者たちに申し付けられていたからである。久右衛門は拷問を受けながら最後まで神の子となることを望み棄教を拒んだ。貧民の素朴な信仰というにはあまりにも堅くゆるぎない。普段は口の中でつぶやく彼の祈り声をその時はっきりと聞けたのは、恐らく死の間際まで彼を苛む同じ下人の牢番役たちだけだったのだろう。やがて彼は教えに殉じ江戸で牢死した。第三代将軍徳川家光は就任すると間もなくキリシタンの処刑は賑わいのある各街道の入口で行わせ、諸大名や人々に見せしめとしていた。この寛永二十年、荒川の辻で磔にされた四、五名の殉教者の記録がかろうじて川越町方史料「榎本彌左衛門覚書」に残る。(高木,p151)他にも多くのキリシタン殉教者がいたが江戸幕府側の記録は極めて少ない。第五将軍綱吉が切支丹山屋敷や各藩庁に残っていた1679年以前のキリシタン古証文を残らず焼却処分させたからである。
”キリシタン時代、殉教のことはマルチリヨ、殉教者のことはマルチルと呼んでいた。ともにポルトガル語で、「証人」を意味するギリシャ語を語源としている。殉教の条件についてどのように教えたのか、『マルチリヨの心得』から挙げてみる。第一には「マルチルになるためには、死ぬことが肝腎である」と教え、たとえ多くの労苦を耐え忍んでも、死なないうちはマルチルではない。囚人としての難儀を耐え忍んで死んだり、その他どのような方法にせよ、難儀を受けたがために死んだのであれば、これはマルチルである。第二には「死を甘んじて受けること」。第三には「その処刑の原因なり動機なりが、かならず信仰あるいは道徳のためでなければならない。」であった。
久右衛門がこの『マルチリヨの心得』を知っていたかどうか不明だが、まぎれもなく彼も殉教についての心得を受け継いだ「キリストの証し人」の一人であった。
代官江川太郎左衛門英暉は久右衛門の末路を「他国者ゆえ父母兄弟のことあい知り申さず候」と書き捨てた。切支丹奉行よりの達しとはいえ、半世紀前わざわざこの伊豆まで流れて来たおかげで自分にこんな手間をかけさせた乞食賎民の出自など、ことさら調べるつもりもなかったのだろう。しかし彼の覚書が、伊豆におけるキリシタン殉教者の名を残す唯一の史料となった。捨てられた石が隅の親石となった。(詩編118:22)
1644年、潜伏キリシタンの中で活動していた最後の司祭が殉教し、これからも増え続ける殉教者たちの霊名をローマに報告する神父が、日本には誰もいなくなった。 |
「どちりいなきりしたん」キリシタン教義書
1591年長崎で印刷 バチカン図書館蔵
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寛永の大飢饉
久右衛門牢死の三年後、こんどはマリの夫彦左衛門と実母のふたりが奉行に捕縛され穿鑿(取り調べ)のため江戸牢送りとなった。密告者の名は不明である。下層身分の潜伏キリシタンたちを匿ったのか、家から何か遺物が見つかったのか密告の原因は判らない。
全国的な凶作によって飢えと死が広がり、百姓たちの中にも田を捨て逃散する者、妻を売り子を殺す者、乞食になる者、餓死する者が各地で顕在化した。これは“寛永の飢饉”と呼ばれた。乞食でなかった者たちが乞食になり、悪党は褒賞金を欲しがった。
マリの生まれた1625年からこの村は韮山領に編入されていたが、その領主江川太郎左衛門英暉でさえ継いだ酒造業が傾き、江川家先祖の代から続いた将軍家への献上酒も休止せざるを得ないほど財政は逼迫した。物資の欠乏から寛永通宝の貨幣価値は下落し、ただでさえ助郷の負役に疲弊した三島宿は東西交通維持という名目で幕府に援助を訴えた。折悪しく草葺屋根の宿屋が並ぶ三島宿では火事も多く、特に1648年11月には三島大火で宿場町が残らず焼失した。狩野川の堤が何度も切れ、洪水によって田畑が流出、凶作が続いた。飢饉禍に他人の袖を乞うて暮らす下層芸能民たちにとって生き抜くことが苦しい時代だった。
もはやキリシタンの父も死に、母も夫も連れ去られた。ささら女マリは、明日江戸牢に連れていかれる恐れ、明日洪水に流される恐れ、明日貧苦に干死(ひじに)する恐れを抱きながら、ひもじさに泣く幼子たちを抱きしめ、ひとり途方に暮れた。 |
江戸時代の狩野川古流 |
南蛮外科
貧苦にひとり残されたマリの祈りが天に届いたのか、夫彦左衛門はほどなく奉行から帰村が許された。彼が放免された理由は、キリシタンの義父と別居していた事もあるが、何より旦那寺の法花宗住職が寺請証文を持って伊豆から江戸に出向き、キリシタン奉行の前で弁明したことが大きい。公に「この者キリシタンに非ず」と寺が連帯責任をもって身元保証をしたのである。その寺証文は現存していないが「…この者法花宗にて〇〇村〇〇寺檀家に紛れもなく御座候、もし御法度宗門のよし脇より訴人御座候はば、拙僧何方迄も罷り出て急度申し訳仕りべく候…」と、旦那寺が被差別民に同情をもって、また集落機能の維持のためから積極的に証文を出すことは『静岡県史』社会集団編第五章p545にも他例がみられる。まして彦左衛門は他国から越して来てまだ間もない、布施も積めない貧しい下層の身でありながら寺を慕う信用できる檀信徒であり、また寺にとっても村にとっても欠かすことのできない重要な役割をもっていたことが伺える。
彦左衛門の仲間の中には、珍しい南蛮医術の心得がある者がいたのだろう。その医術はポルトガル人医師ルイス・デ・アルメイダ神父によって九州豊後にもたらされた。アルメイダ神父は特に貧民の間での救恤活動を重視、また医療技術を持った日本人布教師を養成した。それまで刀矢の傷の手当ては薬草の塗布のみであったが、南蛮流の外科医術では、傷口の縫合、瀉血法、焼灼法など、これまでの漢方医術にない療法が記されている。その技術が西国のキリシタンたちと共に東国にも伝わり、彦左衛門はそれを受け継いだ者たちのやりかたを覚えていた。その医術も、キリシタンたちが消えていく今ではもう使う者も少なくなっていた。
血に触れることを忌避される近世初期の外科は、皮肉にもキリシタンでないと認められた下層民ささら彦左衛門の天職となり、生涯ひそかに彼のもとを訪れる村人たちの傷を癒やした。
こうして江戸から夫の命を救い出して来てくれた旦那寺に対しマリは、報恩の念を強く感じた。もはやこの村で生きる自分が夫やお聖に、キリシタンとして迷惑をかけることはできなかっただろう。自分の捕縛は娘たちの干死を意味する。旦那寺の住職は奉行の前で彦左衛門を弁明する際に、キリシタンの疑いが強い妻マリについても触れ、同じ弁明をしたのではないだろうか。夫の嫌疑が晴れた後で、妻のほうがやはり宗門だったとなれば寺もただでは済まないからである。即ち彦左衛門を助ける条件として、旦那寺はマリに対して同情をもって静かに、家族を選ぶか棄教を選ぶか迫ったのかもしれない。
幼少期に亡き父から教わった聖母マリアへのロザリオの祈りの言葉は、彼女の記憶から一生消えることはなかっただろう。しかし、それを口にすることはもうできなかった。マリは、村に帰ってきた夫の仕事を手伝い、夫との間に今にも消えそうな自分の命の炎を削るかのように新たな娘をもうけた。生きる危険に晒される時代ほど、命の本能は子孫を多く残そうと欲する。 |
人倫訓蒙図彙「外科」元禄三年(1690)刊
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江戸キリシタン屋敷
一方、マリの母親は江戸小日向キリシタン屋敷の牢に繋がれていた。久右衛門の妻に対する奉行の取り調べは厳しく、日々の拷問は酸鼻を極めた。三十路まで生きるのが難しい時代、夫を亡くした失望感と、死罪の宣告を待つ恐怖の獄中で、初老の女のどこにまだ生きる気力が残っていたのだろう。
各地のキリシタンを根こそぎ捕え殲滅させるために新たに増築された小日向のキリシタン屋敷は入牢した時点で苦痛が始まる。それ以前、小伝馬町牢屋敷に二十か月間収牢され救出されたディエゴ・デ・サンフランシスコ神父の報告からその様子が伝わる。”牢舎は男女別に仕切られた四つに隔てられた部屋に、夥しい人が押し込められていた。外部から話しかけることはできないよう壁の外に通路で隔てられた二重の外壁が設けられていた。横になる隙間もなく、寝る時には他者の上に足を乗せるか、または他者の足が乗ってきた。交互に打たれた角材で仕切られた壁から光が洩れる程度で常に隣の顔は判別出来ない。水は毎日茶二杯、食事は汚い水で煮た腐った米と椀の汁が一回配られたが病者からは取り上げられた。最も苦痛なのは死者が出たときで、蒸し暑い中すぐに腐敗が始まっても一週間持ち出されない事もあり、耐えきれない強烈な死臭が部屋中に匂った。ようやく亡骸を運び出すとき腐水が糸を曳いて自分の体の上に滴る者は、激しい拷問を受けたときと同じような悲鳴をあげた。死人がいくら連れ出されても牢内の囚人数が減ることはなかった。常に同数の囚人が新たに連れてこられたからである…。”
類族帳には、婚姻後の女は”妻”とのみ記される。人扱いされないままマリの母親はそこに十年以上収監されていた。夫がキリシタンだったという罪である。夫は神を信じて落命した。この妻は何を信じていたのだろうか。自分からその運命を変えることのできない死刑を待つ囚人としてどんな希望が残っていたのだろうか。
「村に残した娘マリと孫娘たちはまだ生き長らえているのかさえ判らない。自分が生きてさえいればその子たちをねんごろに弔ってやりたい。老いた自分はいつ夫の待つ場所に発っても良いが、その前に子たちのために帰れるものなら帰ってやりたい。」その細く儚い憐みだけが、夫が受けた拷問と同じように、もしかしたらそれ以上に辛く長く冥(くら)い生き地獄の中で、正気を保ち続けた名もないささら女の生きる支えであったのかもしれない。
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小日向キリシタン屋敷
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切支丹本人同前
マリの母親は長く江戸牢に繋がれていたが、十一年後ようやくキリシタンの嫌疑が晴れ、村に帰された。“今生の再会はないと諦めていた母の、老いて小さく変わり果てた姿を見たマリの悲しみと喜びは、言葉にならなかっただろう。彦左衛門とともに母を宅に引き取り、家族水入らずで暮らしたマリだったが、その翌年娘たちを残して三十三歳で病気のため先立った。聖母被昇天の祝日十日前であった。彼女は法花宗旦那寺に土葬された。土を被せる作業はささら彦左衛門の最後の妻へ勤めだったのだろう。
代官江川太郎左衛門が力を込めた”土葬”の墨蹟の下に、判読不明の文字が下書きされたような薄墨の蹟が見られる(右図参照)。マリ以外の他の子孫は全て土葬ではなく取置と記載されている。墨筆の書き直しが出来るかどうか判らないが、マリに関しては切支丹とみなされた故に、慎重に区別表記し直すべき、との”ためらい”が代官の心中に働いたのではないだろうか。
懸命に家族を守り続けて生きたマリの、キリストへの信仰心については何も語られていない。しかし彼女は“久右衛門娘本人同前“つまり、切支丹本人同然であった、と代官が書き記している(右図下赤囲み線参照)。この表記は「転宗前の切支丹から生まれた子は、洗礼を受けているので本人同然切支丹とみなす」という意味合いである。この類族帳の最終頁にもその書式の覚えが残り、また他藩の大分や大阪の類族帳でも同様の書式表記が見られる。(『豊後諸藩における類族制度の展開』佐藤晃洋)
切支丹同然とみなされながら、マリが江戸牢で穿鑿を受けた記述は無い。宗門穿鑿式に依れば“切支丹の家族であっても訴人(密告人)さえなければあえて取り調べない、とある。したがって隣人に切支丹と知られることは生殺与奪に関わる致命的な弱みであり、実際、理不尽な腹いせに訴えられた事件が、渡瀬村などでも起きていた。切支丹を取り締まる奉行井上築後守もまた受洗した身でキリストの教義に精通していた。聖母の燻香漂う名に気が付かぬはずはなかった。
しかしマリは聖母に守られていたのか、すでに旦那寺からの庇護と引き換えに棄教していたのか彼女を密告する者はいなかった。夫の外科の助手や鳥追いをしながら強く寡黙に子を産み育て生きていたのだろう。切支丹同然とみなされて生きたマリが、その内面に例え父同様に深い信仰を秘めていたとしても、殉教者と認められるような証しは残されていない。正式な殉教認定には教会の承認を待たねばならないが、彼らの中で殉教者の可能性があるのは久右衛門のみで、マリはキリスト教の幼児洗礼を受けた可能性があり、他の類族(家族子孫)たちについては何も記されていない。
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マリだけ”土葬”の表記『切支丹類族死失帳』
久右衛門娘本人同前一まり 切支丹本人一久右衛門
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亥の満水
“説経は乞食の芸術である”(室木)。しかしその芸術も、ささら棒の代わりに三味線(音楽性)や操り人形(視覚性)と結びつき、やがて浄瑠璃説経(劇場型)に流行が移っていった。三島宿ではまだ物珍しかったささら説経も、すでに上方大阪では、ささら棒を捨てた新しい操り芝居が人気を博していた。五説経に代表される哀愁漂う立ち語りの様式美はやがて古典になり、廃れていくと、彼ら”本山から離れた漂泊”ささらの子孫は稼ぐ芸もなくいよいよ貧しくなった。
さらに悪いことに続く天災に村全体が干上がった。残された子孫たち、特に女たちの命は長らえることはなかった。ささらの十兵衛の許に嫁いだマリ長女ツマは、二十三歳で病死した。ツマとの間に子はいなかったので十兵衛は村から去ったらしい。駿河の府中から出たささらの久左衛門を婿にとった次女タケは、村で長女ヒナと次女ヒサを産んだ。しかしこの二人の幼子たちは長ずることなく手を取り合うように1671年にそれぞれ十四歳と六歳で病死した。娘たちの亡骸は父久左衛門の手で旦那寺に取置された。
この1671年8月27日、狩野川に「亥の満水」と呼ばれた記録的氾濫が起こり、これを原因とする飢饉が田方平野一帯を覆った。マリの末娘ハナは十八歳で病死、それを看届けたマリの母親も七十六歳の長寿で息を引き取った。飢饉の下に鳥を追うほどの作物はない。老外科彦左衛門の命も尽きたことで、代官がこの『切支丹類族死失帳』を作成した1690年に、ささら一族の子孫は誰も生き残っていなかった。
村の橋のたもとにあった法花宗旦那寺は明治の廃仏毀釈時代に廃寺(正確には別寺と合併)となり、今は墓地のみがひっそりとその名残りを残す。当時ここにマリが土葬され、久右衛門妻、彦左衛門、ツマ、ハナが取置された。また浄土宗檀那寺には久左衛門、ヒナ、ヒサが取置されたと書かれている。代官が調べたその過去帳はもうどちらの寺にも残らない。また子孫の絶えたどちらの旦那寺の墓地にもいま彼らの墓は見当たらない。そもそ初めから墓石が立てられたのかも定かではない。取置とはそういうものかもしれない。 |
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久右衛門が説経節に秘めたもの
中世まで口伝であった説経節は、寛永年間に正本にまとめられ、有名な語り物は『苅萱(かりかや)』、『さんせう太夫』、『しんとく丸』、『小栗判官』、『愛護の若』など五説経として今に伝わる。中でも安寿と厨子王姉弟の人生を描いた「さんせう太夫(山椒大夫)」をここに取り上げ、この有名な語り物を、キリシタン久右衛門はどのように謳ったのか、その心情を考察してみたい。
そもそも説経節とは、仏教信仰を勧める宗教説話としての色が濃い。『さんせう大夫』の始まりもまた「一度は人間の姿で現れた金焼き地蔵」を尋ねる本地譚の形式を取っている。後述する処刑道具が地蔵名に冠されていることも、カトリックの聖人たちが、自分を殺した処刑道具をアトリビュート(象徴持物)とする姿に描かれることと共通している。
社会から身分の籠舎に押し込められた近世では、ささらに生まれた子はささらとしてしか生きられない。ささらと結婚しささらとしか生きられない。そんな下層身分として生きる苦難の現実から、かつては由緒ある血統だったという証しできる日が来るのではないかと彼等は夢見た。
”系譜的に前時代の貴人層との結合は、下層民衆の先祖に貴人を求める悲願のうちに、たえがたき身分的圧力に対する内向的伝承に傾いていく陰影が伺える”(荒井貢次郎『被差別部落形成伝承の異端的系譜-伊豆国の場合-』)特に伊豆の下層民たちは自分たちの内側に眠る種のように、昔の貴人に繋がる伝承を大切に保存しなければ生きて行けなかった。もともと“説経の世界は、禁忌される存在であるが故に、最も聖化される可能性をもつという信仰的な確信”に導く物語である。(岩崎武夫『さんせう太夫考』)
だからこの貴種流離譚を、差別されて生きるささらはどうしても自分の人生と重ねて語らざるを得なかった。貴人の家系図を持たなくても”神の子”に生まれ変われると説くキリスト教の教えは、九州の切支丹大名たちを除けば、全国的には下層民の間に特に広まった時代であった。キリスト教の広がりと説経節の成立が共鳴していた時代背景を指摘する先学もある。
“安寿と厨子王の関係も原則的には「母子神信仰」として理解されることになる。ともあれ説経節『さんせう太夫』において厨子王を世に出すために犠牲となった安寿の「代受苦」にはキリストとよく似た苦しむ神「償い主」「救い主」の面影がある。この『さんせう太夫』の成立した近世初頭とは、キリシタンの教えが爆発的に人々の心を捕えた時期であり、また和辻の述べる如くこの時代は「苦しむ神」(マルコ8:31)がさまざまな形で現れたのであるから、この物語にはキリシタンの発展と共通する時代背景をみることができる。”(安野眞幸『説経節山椒太夫の成立』)
物語冒頭母と乳母に連れられ幼い安寿と厨子王たちが、町に宿をいくら求めても見つからず彷徨う姿は、新約聖書にあるイエス誕生前夜の聖家族のそれを彷彿させる。「彼らがそこにいるうちに、マリアは月が満ちて初子の男子を産み、産着にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まるところがなかったからである。(ルカ2:7)」
語り物のなかで誰も他国者に宿を貸す者はない。貸せば厳罰が待っていたからである。「…越後の国直井の浦こそ人売りがあるよとの風聞なり。このこと地頭聞こしめし、所詮宿貸す者あらば、隣三軒罪科に行うべきとあるにより、貸す者御座あるまい…」 現実では「宣教師やその奉仕者と関係をもち、宿を貸すことは厳禁とする。これを犯した者は火炙り、財産は没収。同じ刑罰はその妻子とその家の近所両隣五軒にも及ぼす」という将軍秀忠の高札(1616年禁令)が周知されていた。絵空事ではなかった。少なくとも「さんせう太夫」の物語は久右衛門にとって身近に起きた史実そのものであった。
物語のなかで邪慳の三郎は、下人の身分であることを子どもら姉弟に分からせるため、有無を言わさず安寿と厨子王姉弟の額に赤く熱した金矢じりを押し付け「十文字の焼き印」を刻む場面がある。この描写も先に原主水がその額に受けた「十字架の焼き印」の拷問(1615年)の史実を想起させる。拷問の烙印はやがて信仰の証しとなる。また、厨子王の母御台所がその足の腱を切られ逃げられない姿にされた場面も、原主水が受けた仕打ちと同じであった。駿河にも近い久右衛門は、「さんせう太夫」も「ジョアン原主水殿」も両方「よく知っていた」。
さんせう太夫に漂う「聖痕」と「洗礼」の薫香についても触れてみたい。
物語の終盤、都で最高位の貴族梅津の院が、天王子を訪ねそこに集う孤児の中から養子を選ぶ場面がある。並ぶ稚児たちの中で賎しい厨子王の姿に目が留まる。下人の印として十文字に焼かれた無残な烙印が、金焼地蔵の加護で額から消え失せ、やがて梅津の院の目にはその子の額が吉兆としてはっきりと映り、そのために彼が世継ぎに選ばれる。天王寺という天の国の審判では受けた拷問痕が消え、見えない聖痕となって輝く。久右衛門は、この場面に現世で賎しい身分の受ける苦しみはやがて天への狭き門を通る鍵となる確信を感じ取った。数多くの稚児の嫉視と蔑みを受けながら、厨子王の賎しい外見が、湯に入ることによって浄まり、貴種へと変貌を遂げるのは、明らかにそこで生命の転換と更新の劇が、湯を媒介にして演じられたことを示している。これもキリスト教義の視点からみれば「水による洗礼」、すなわち罪に穢れた昨日の自分が死に、新たに清められた神の子として栄光の中に蘇生する最も大事な儀式と同じ作用であることは容易に思い至る。説経節のなかに語られる聖痕と洗礼の神秘によってこの賎しい命の復活が可能となるのは、しかし久右衛門にとって、仏教でも神道でもなく「天の国は義のために迫害された人たちのもの」と明確に説くキリスト教だけであった。
久右衛門にとってさんせう太夫を語る時「安寿」と「厨子王」が受けた苦難は「アンジェロ」と「イエズス王」に変容し、即ち聖母子の受難と重なった。それはまた、今キリシタンの仲間が次々に進行形で受けている現実の殉教体験でもあり、いずれ自分の身にも起こるべきガラサ(Graça=神の恩寵)のようにも感じられた。その恩寵とは下人である自らの身分を、天の国で神の子の身分に昇華できる生命の更新、栄光の死へのプロセスである。さらに、天に上げられた久右衛門のとりなしによる恩寵なのか、のちに娘マリと母親が奇跡的に再会できた歓喜もまた「さんせう太夫」に鳥追いをする盲しいた母と、涙の再会を果たす厨子王の物語の結末を見事に補完していた。
本来仏教や仏像への信仰を勧める説経節を、都合よくキリスト教信仰に当てはめるのは換骨奪胎ではないのか、という疑問には、禁教令当時の潜伏キリシタンたちの置かれた状況を今一度思い出したい。潜伏信徒たちが懐にしていた”マリア観音”は仏像だった。見る者がそこにマリアを見たからである。江戸時代のキリシタンはこうした説経節に仮託することでしか、表に立って語ること、祈ることなど出来ない時代であった。もとより言葉を操り人前で話すことを生業にした彼のこと、出来ることなら誰より彼自身が、でうす・ぜすすの福音を高らかに辻説教したかったのではないだろうか。
彼が生前毎日握りしめた二本のささら棒も、そっと密かに祈るとき、慎ましい祭壇のクルス(十字架)となり得たように思えてならない。ささらキリシタン久右衛門にとって、ささら道具は、家族を養う「生きる糧」であり、また隠された祈りの「聖具」でもあった。
説経節「さんせう太夫」を底本に小説に書き直したのが、森鴎外の代表作「山椒大夫」である。鴎外は島根県津和野の出身であった。
明治時代初期、森鴎外六歳のころ、彼の実家裏の乙女峠で多くのキリシタンたちが殉教していった。
さんせう太夫を説経した久右衛門も、山椒大夫を執筆した森鴎外も、それぞれ産まれた長女に「マリ」という名を付けていた。
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熱した矢尻(赤枠)で額を焼かれる安寿と厨子王。
「天下一佐渡七太夫正本」挿絵
1601年ドミニコ会宣教師によって日本に
持ち込まれた「ロザリオの聖母」像
厨子王と安寿(森鴎外原作「山椒大夫」1954年) |