頼朝の湯伝説 

- 吾妻鏡と古奈温泉 -

・古奈温泉発祥の地

湯谷神社(静岡県伊豆の国市古奈1 )には、今も最古の元湯跡が残る。
案内立札によれば、自然に湧き出ていた元湯は、近隣の源泉乱掘のため、大正末期で涸れた。その後ポンプで温泉が汲み上げられ昭和30年代まで共同浴場に利用された。
その頃までは、源氏山から伊豆石(凝灰岩)が採出されたことから、全国から多くの石工たちが集まり、古奈銀座と呼ばれるほど賑わった。 神社までの狭い通りに宿屋が5、6軒立ち並び、湯があって金を落とす職人がいれば、物見遊山客も来て、置屋も酒屋も賭場もたち、立派な能舞台まであったという。(2016年春・元ささや旅館主人談)
さて、件の立札には、「源頼朝公も入浴されたことが吾妻鏡に記されています」とある。また、地元で診療していた田口達雄医学博士も『名湯百選』データベースへの寄稿でその表現にお墨付きを与えている。では、本当に頼朝が入浴したのだろうか?それを確認すべく、鎌倉時代に書かれた『吾妻鏡』をあたってみた。
・源頼朝伝説

『吾妻鏡』を調べたところ、頼朝が古奈温泉に入浴したという記述はない。
したがって、近隣の温泉宿が営業宣伝に謳うのは個々の責任に任せるとしても、自治体やそれに順ずる公的組織が「吾妻鏡に頼朝が入ったという記述があります」という誤情報を公表することは控えるべきだろう。

ただし、蛭ヶ島から馬で5分の距離にある妻の実家北条家所領の温泉を、頼朝も知っていたとしても無理はなく、同書によくその名が挙がる伊豆山や大筥根と同じくらい重要な医療施設だったと推測されてきたことは不思議ではない。
特に武家社会の山岳信仰と湯治が結びついている点においても、湯谷神社の祀られている源氏山は、かつて弥勒山とも権現山とも呼ばれており、厚い信仰を集めていた様子が伺える。
伊豆配流時代の頼朝に関する史料は殆んどないが、この地域には頼朝伝説が民間伝承として多く伝わっている。
右の絵は、湯谷神社前に現存する温泉旅館に伝わる『頼朝公本陣入湯の図』である。おそらく昭和時代に宣伝用に描かせたものだろうが、宿の亭主が湯船の頼朝らしき武家にかしずき湯加減を訊いている。後に頼朝から石橋山の戦いでの物資調達の功績により、亭主一族は石橋姓を賜ったと先祖から伝え聞いたという。
この旅館には頼朝伝説の残る腰かけ石のほか、露天風呂の岩壁に素人が線彫りで彫ったような、不鮮明の種子真言も見つかっている。
北条家が頼朝のために建立したとされる近所の願成就院は真言宗である。

・将軍家にも知られた名湯

吾妻鏡に初めて古奈温泉の名が登場するのは、第31巻、頼朝没後の1236年、鎌倉幕府4代将軍藤原頼経(よりつね)の時代である。
「嘉禎二年四月八日 甲午  将軍家伊豆の國小名温泉に渡御有るべきに依って、来十七日を以て御進発日に定めらる。而るに去る一日若宮蟻の怪異の事、動揺不安の由占い申すの上、また宿曜師珍譽法印、遠行を御慎み有るべきの旨言上す。陰陽道不快の由占い申す。仍って今日議定有り。遂に思し食し止むと。 」( 訳:嘉禎二年四月八日 甲午 将軍様は、伊豆の国古奈温泉へお出ましになるので、来る17日をご出発日と決めておられた。しかし先日1日に起きた鶴岡八幡宮若宮での蟻の怪事件は人心の動揺と不安のためとの占いが出て、さらに占星術師珍与法印からも、遠出はお控えになるが宜しいと申された。陰陽道でも宜しくないと申しているので、今日の会議をもって、ついに中止を思し召したということである。)

将軍頼経は鎌倉で疱瘡(天然痘)に罹ったが、加持祈祷の甲斐があって一ヶ月ほどで回復した。その三ヵ月後に古奈温泉に行くことを計画していたが、建設中の鶴岡八幡宮若宮に大発生した羽蟻を鎮めるため緊急の祈祷を始めなくてはならなくなった。また祈雨もある。彗星も降れば祈祷である。自分の身一つ自由に動かせない若き公家将軍の姿が伺える。さぞかし窮屈な鎌倉をしばし離れ、伊豆の温泉で疱瘡の痕が残る体を癒したかったことだろう。
頼経は生涯を政争に翻弄されながら、やがて赤痢で京都に没した。この鎌倉4代将軍の記述が、頼朝の湯伝説とイメージを重ねられてきたのではないだろうか。


・医療施設としての古奈温泉
それから4年後の1240年9月、第33巻にも古奈温泉(小那)がでてくる。
「仁治元年 九月大八日戊辰。戌の刻施薬院使正四位上丹波朝臣良基卒す(年五十五)。
時に
伊豆の国北條小那温泉に在りと。」
(現代語訳: 仁治1年 9月8日。午後8時頃、施薬院使正四位上 丹波良基(55才)が亡くなる。その時、伊豆の国北条の小那温泉にいたという。)

丹波氏とは、薬学、医学の知識を司る施薬院の職位を代々務めた名門の公家一族。良基は、典薬頭だった従四位下丹波経基の実子。良基は京都出身の公家将軍頼経の主治医でもあった。この時より京都に限定されていた医学知識が初めて伊豆や鎌倉へと伝わった。
正四位上は氏に朝臣がつき公卿にのみ賜れる、当時権勢を奮った北条氏の有力一門も正四位下を賜ったが、家柄のため上には昇れなかった。北条一族にとってもこの京から来た施薬院使の存在は貴重な財産であった。
公式記録があるところをみると、古奈温泉も朝廷より院使を置かれた公式な医療施設として見なされていたようだ。新鮮な薬草も栄養のある食糧も伊豆の地で調達できたのだろう。地名や館名ではなく、つねに「小那温泉」という天然医療設備とセットで記録されていたことは興味深い。
湯谷神社で祀られている大己貴命(おおなむちのみこと)は、温泉を医薬に用いることを初めて人に教えられた神として崇められている、と立て看板に記されている。その役割は伊豆における丹波良基とかぶる。

現在も古奈温泉近くには、順天堂大学医学部付属静岡病院があり、伊豆半島地域医療の要となっている。
先に挙げた田口医師も、その寄稿のなかで古奈温泉の効能を、胃腸病 皮膚病 リウマチ 筋肉痛 神経麻痺に効果があると認め、飲湯利用も紹介している。このアルカリ性単純泉はやさしく角質を軟化させるため、ぬるぬるとした感触があり「美人の湯」と呼ばれ美肌効果があるともされている。


・江戸時代の温泉番付

時代が下り、人々は湯治目的の他に娯楽を温泉に求め始めた。
江戸時代1851年嘉永4年2月に発行された諸国温泉功能鑑にも、
豆州小名の湯が前頭2段目に挙げられている。
町人が相撲に見立てたこの番付は、温泉の効能の高さを元にランク付けされており、行事役の別格熱海温泉を除けば、静岡県で最も高い順位となっている。朱善寺(修善寺)温泉も東前頭二十三枚目であったが、明治二十四年には行司になるほど格が上がっている。
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